三連休を無為にすごした。その後悔と慚愧は決して癒えんのだが、それはさておきタワリシチャーたるもの外で飯を食うのが一分である。天気はあきれるほどの事な日本晴れ。こんなすがすがしい晴天は南国と化した日本であと何日拝めるかどうか。 駅近くの寿司屋で寿司を買う。手ごろなパック寿司はあらかた買い占められ、単品が心もとなくあるのみだ。仕方なくねぎとろ巻としめさばを買い、その足で揚げ物屋へ行き、めんたいロール(明太子を挟んだ鶏肉の揚げ物)とカキフライを買う。これで酒肴はととのったのだ。仮に不自由分とて、そう強く念じこむことで目の前に十全の馳走が広がる道理である。 河川敷はひとむかしまえに比べると森閑としておる。コロナ禍で頓に流行したテント持ち込みの陽キャどもひしめくキャンプ勢はなりを潜め、やがて火は消え、暗闇だけが残る。 寿司と揚げ物を叢に潜んで――というのも河川敷で火器を使うと管理事務所の下請けらしきおっさんににらまれるので――むさぼり食っていたら近所のピュアなジャリボーイが覗きこんだ。…ほう、珍しいこともあるものじゃ。亡者の穴蔵に、まともな奴が落ちてくるとは。それとも貴公、そういうふりがうまいだけかね? トランギアの薬缶でお湯をわかし、芋焼酎もぐらのお湯割りを呑んだ。芋焼酎とはお湯割りでこそ花開く酒。ある意味日本酒以上に冬の酒なのだ。 少年よ、酒に呑まれるなよ。強く生きるのだ。名も無く、薪にもなれなんだ、呪われた不死。けれど、だからこそ灰は残り火を求めるのさね。